「メンヘラ」という言葉は出回るのに「人格障害」という言葉は広まらない。
深刻過ぎるのは、面白くない。面白いのはいつだって「ギリギリ」だ。水曜日のダウンタウン、世界の果てまでイッテQ、大食い番組、ドッキリダマサれた大賞……
ギリギリは「面白い」と笑われるのに、それが度を超えたとき、皆一斉に口を閉じる。皆は口を閉じればいい。でも当事者は苦しんで、下手したら死ぬ。
「だって、本人が自分の意志でやったことだろ」
責任は笑っていた側ではなく、あくまでやった側。
でもさ、その人が障害者だったら?「メンヘラ」という言葉で軽く包装された「人格障害」だったら?
その人が目が見えないことを私たちは「知らない」がために、その人を線路に飛び込ませようとして面白がっているのかもしれないのだ。
ずっと「メンヘラ」とセットで「人格障害」という概念が広まればいいなと思っていた。深刻すぎるのは笑えないけど、知らないでいるほうが笑えない。
この「死にたい夜にかぎって」は、その役割果たせる作品だと思う。人格障害を抱えた人間ドラマの傑作。とても分かりやすくて、そして決して暗くなくて、笑えるのだ……
人格障害者との関わりを描くドラマ
「君、変わってるね」
そこから「人格障害かもしれない」に思考が辿り着く人はどれくらいいるのだろう。
ちょっと変わった行動をする人、それが歌になったり映画になったりする人の中には、人格障害に当てはまる人がいる。尾崎豊も太宰治も、人格障害者だと言われている。
刺さる人には刺さって、刺さらない人にはかすりもしないと言われている「死にたい夜にかぎって」。刺さるのは少なからず、自分や自分の周りに、変人に思い当たる人がいる人なのかもしれない。
深刻になりすぎないようシュールな笑いが散りばめられているが、実際は笑えないことが多くあっただろう。そんな想像に突き刺される。なんといっても、死にたい夜にかぎってのアスカは「不安障害」だ。
「私たち2人はさ、結構笑えないこともあったじゃない?」
アスカの言葉が好きだ。笑顔で話すアスカの言葉。
メンヘラに引っかかるのが男性側に多いように、人格障害は女性側というのはよくある話だが、本作品は主人公の男性こそメインでそれが救いだった。
主人公は昔から人間について考え、良くも悪くも人間とどっぷり関わり、閉所恐怖症を引き起こしていた。そんな主人公が、アスカと視聴者の気持ちを救う。
閉所恐怖症は人格障害ではないが、アスカの不安障害を受け止められたのは、それに近い類を経験し、なんとなく理解して共感できていたからに他ならない。
“普通の人”なら理解できないことばかりが続き、疲労で倒れるか、逃げるか、同じような症状を引き起こして苦しんでいただろう。
これを見ると、やはり人格障害者のパートナーはある程度人間に興味がある人、障害に理解がある人がいいのかもしれないと思う。
親の存在
個人的には、主人公の母親、父親が登場するのが良かった。
主人公の母親が兄を連れて出て行ったことにより、母親への思いが女性への思いの基盤となっているという人格形成に関わる要素が表現されるが、その上で、更に父親が大きな影響を与えていたことが中盤わかる。
体育会系の父。愛があるように見えて行き過ぎた鉄拳制裁で育てられ、主人公はそこで閉所恐怖症を引き起こしている。
母親と父親のエピソードが、主人公の人格形成の一要因として、視聴者にさりげなく伝えられている構図に考えさせられる。
閉所恐怖症にしろ人格障害にしろ、原因は不明だ。遺伝もあれば環境もある。ただ、それを理解するとき、家族や身近な人の存在はどうしようもなく大きい。
かなり難しいはずの「ハッピーエンド」
人格障害のエピソードで、ハッピーエンドで終わっている話が世の中にどれだけあるだろうか。太宰治の人間失格は、ハッピーエンドと呼べるだろうか。
この「死にたい夜にかぎって」はハッピーエンドだ。
何故だろう。
苦しいことがたくさんあったのに。笑えない話がいっぱいあったのに。結局アスカは他の人の元へ行ってしまったのに。
その一つは、主人公とアスカが互いを理解する努力をしたからだろう。障害に向き合い、話し合い、夜な夜な首を絞めるアスカの行動を、気持ちを、主人公はちゃんとわかっていた。
わかっていた、と言うのは、わかろうとしていたに過ぎないかもしれない。
他人の気持ちなんてわからなくて当然。だが、それが表面的な言葉でないのは、
病院に付き添ったこと。正しい治療法を知ったこと。治療法を一緒に実施したこと。
「わかっているよ」
口先だけでなく、行動で裏打ちされていたから。その安心感が、揺るぎない絆を生み出した。
これは、人格障害者に限った話ではない。
「相手を理解すること。理解する努力を、行動で示すこと」全国どのカップルにも当てはまる、最低限にして最高の思いやり。
素敵だな。
シンプルに思う。
アスカの最後の手紙に書かれていた「最高の時間の無駄遣い」は、お互いがお互いを理解する努力をして、最大限理解し合った結果の言葉で、いい言葉だなと思う。
「まあいいか」の魔法
小説を読んだ人、ドラマを観た人は、ハッピーエンドの一要因をこう言うのではないだろうか。
主人公の「まあいいか」。
主人公はどんなに辛いことがあっても「まあいいか」と笑う。
OP曲である、ましのみさんの「7」も「まあいいか」が印象的である。
「まあいいか」
この言葉は、言える人と言えない人がいると思う。少なくとも私は言えない。逃げだと思ってしまう。問題解決を後伸ばしにしている無責任な言葉だと。
でもこの言葉が、この話をハッピーエンドにした。アスカとの関係を青春に変えた。
死にたい夜にかぎってを見て、やっぱり「まあいいか」は幸せに繋がる言葉なのかもしれないと思った。
「まあいいか」で検索すれば、幸せに繋がりそうな記事もいくつも見つかった。
きっと、逃げの「まあいいか」ではないのだろうな。
どうにもならないことに対する「まあいいか」。損して得取れの「まあいいか」。ここでいう得は、幸せだ。
今回の「死にたい夜にかぎって」は、少しだけ私の「まあいいか」のハードルを下げてくれた。
イエスマンのように、1度試してみてもいいかなと思っている。
死にたい夜にかぎって
刺さる人には刺さって、刺さらない人にはかすりもしないこのドラマ。まとまりなく、つらつらと書いてしまったが、とにかく本を読んでほしい。ドラマを観てほしい。
ドラマでは、主人公を賀来賢人さん、アスカを山本舞香さん、そして主人公の父親を光石研さん、主人公の初体験の相手を安達祐実さんが演じている。
「なんかよく分からなかった」
「誰にも共感できなかった」
「普通、じゃないよね」
分かる。だから、
「こういう人もいるんだ」
「もしかしたらあの人は、人格障害で苦しんでいたのかもしれない」
「相手を理解するために、今自分にできることはなんだろう」
そんな新しい観点に気づくきっかけになれば、まあいいか、って。
※noteに記載していたものを、作者の爪切男さんが読んでコメントくださいました。ありがとうございました。
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