冷たいディベートじゃなくて、あったかいディスカッションがしたい

A

小学生のとき、ディスカッションの授業があった。その日のテーマは「『お弁当』か『給食』、どちらが好きか」だった。

ディスカッションの授業が楽しみだった。単純に、自分の発言で誰かが意見を変えて、「自分が好きなものを共感できる人」が増えることが嬉しかったんだと思う。

思考を重ねて「信念」のようなものがあったから、私はあまり自分の意見を変えることがなかった。

このときは迷わず「お弁当」を選んだ。早起きして、お母さんがつくってくれるから。

給食も大好きで、給食のおばさんも大好きで、つくってくれる多くの人たちがいることは知っていたけど……おばさんはともかく、顔も知らない多くの人たちを選んで、私だけのためにお弁当をつくってくれるお母さんを選ばなければ、お母さんに申し訳ないと思ったから。

お母さんのお弁当を選ぶのは、私しかいない。給食のおばさんも、つくってくれる多くの人も、自分の家族に選ばれていればいいなと思った。

この意見を言ったら、ほとんどの人が「給食」から「お弁当」に意見を変えた。

この、誰かが意見を変えるとき、「私の意見に共感してくれて嬉しい」気持ちと、「いいのかな?」という責任を感じた。共感してくれる人が増えるのは嬉しいけど、私の意見が「正しい」とは思っていなかったから。

「Aが言うことはいつも正しいから」と、最初から私の意見に合わせる子もいた。それはあまり、嬉しくなかった。

「給食」側の子は、2、3人になった。その子たちには兄弟がいることを知っていたから、兄弟の誰かは「お母さんのお弁当」を選んでいたらいいななんて思った。

「なんで、給食がいいの?」

先生が聞いた。私も、その子たちの答えを待っていた。

もしその子たちに、お母さんがいなかったら?お弁当をつくってもらっていなかったら?お弁当に嫌な思い出があったら?

そういう意見が返ってきたら、なんて返そうかな……なんて考えていた。

すると、1人の子が言った。

「給食は、今しか食べられない」

今思えば、特段思いつかないようなブッ飛んだ意見でもないのだが、こうして今も覚えているほど、当時、私の頭にはなかった考えで衝撃を受けた。

確かにお母さんのお弁当も、ずっと食べられる保証はない。お母さんが料理をつくれなくなるかもしれない、遠く離れてしまうかもしれない。でも、給食は、中学校を卒業したら、近い未来“確実に”食べられなくなる。

テーマはなんだっけ。私はもう一度考えてみた。

「『お弁当』か『給食』、どちらが好きか」

好きなのは、両方好きだ。

でもどちらか選ばなければならないとき、「今」選ぶのだとしたら……確実に食べられなくなる給食でもいいのかもしれないと思った。もし今日、給食を選んだことが母親に伝わっても「お母さんのお弁当は、中学を卒業しても、大人になっても食べられるから」と言えば、わかってくれるだろうと思った。

その子の意見で、また給食派が増えた。

「お弁当も、給食も、どちらもいいよね」

先生はそう言って、授業を締めくくった。

「あの意見で動いちゃった。給食が食べられなくなることは、考えてなかった」
「でもAが言った通り、お弁当を選ばなかったら親は悲しむと思う」

ディスカッションの授業が楽しかったのは、あとからみんなで笑えたからかもしれない。

みんな違うことを考えていて、自分じゃ思いつかない考えを知ることが楽しくて、これまで変わらないと思っていた意見が、まだ変えられることが嬉しくて、どちらがいいとか悪いとかじゃなくて、勝ち負けじゃなくて、みんなで笑えたから。

どんなにどちらかに人数が寄っても、先生の言葉で意見が変わる子が必ずいて、0になることはなかった。たまに、自分が選択したほうじゃないほうの立場になって意見を言う回もあった。

あとから知ったのは、ディスカッションの授業は、そのときの担任の先生が考えたものだということだった。今でもその先生とクラスのみんなとは交流があって、当時のことはそれぞれよく覚えている。

ディベート」と「ディスカッション」は違う。本当は、「ディベート」に近い授業だったことはわかってるけど、「ディスカッション」って言ったのは、やっぱり勝ち負けがなくて、自由で、笑えたから。

ふと、こんな風にまたディスカッションがしたいと思ってしまった。

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