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A:自分で障害だと自覚することがない人は、本当に困らないのかな?
B:Aが研究してきた中で出会った人たちは、困っていそうだった?
A:いや……受け入れていた気がする。「自分はこういう性格なんで!」みたいな。
B:そんなもんかもね。
A:そういえば、最近よくあるじゃん。「ありのままの自分を肯定しましょう」って。もちろん自己肯定感は生きていく上で必要だけれど、肯定しすぎて現実が見られなくなる危険性もあると思うんだよね。
B:どういうこと?
A:「もしかしたら自分は障害かもしれない」って考えることをやめて「これがありのままの私です!」って。例えば、風邪を引いているのに「もしかしたら自分は風邪かもしれない」って考えずに「咳してる私も、鼻水を垂らす私も、ありのままの私!今日も元気!」って、いや、薬飲んで大人しくしてて!ってなるじゃん?知ることで改善されるのに、知ろうとしないことで改善から遠くなる、はたまたリスクに近づくのは怖いなと思う。
B:確かに。
A:もう1つ、発達障害や人格障害とは異なる極端な例えだけれど、目が見えない視覚障害の人がいるとするじゃん。本人は目が見えないから、目が見えないことにも気づけなくて。人と生活を送る上で「なんか私、みんなと違う?」って思ったときに、周りが「大丈夫!あなたはあなたのままでいいよ!」って言って「そうか、私は私のままでいいんだ!ありがとう!」って言うのも、どうなのかなって。
B:うんうん。
A:自分で目が見えないことを分かっていなければ、電車の駅から落ちることもあるし、車に轢かれることもあるし、段差で落ちることもあるし……命に関わる危険が多くなるよね。それに対して周りが「大丈夫!あなたはあなたのままで!」って言うのは、少しゾッとしてしまう。真剣に向き合って、手をとって、リスクを減らしていこうっていうのが、あったかくない?
B:なるほどね。
A:目が見えないことに自分は気づけず、周りは気づこうともせず、それでいて目が見える人たちと同じ環境で生きていきましょうっていうよりは、「目が見えない障害です。だから、目が見えない人が、目が見える人と同じように生きられるよう、段差をなくしましょう。点字をつけましょう」って、そっちのほうが世界あったかくない?って思うんだけれど。
B:そうなる前に、目が見えない本人が困るんじゃないかな?困ってるから、周りも「段差をなくしましょう。点字をつけましょう」ってなるわけで。困ってる人がいないのに、わざわざ点字をつける必要もないと思うんだよね。
A:じゃあ本人が困っていないから、または困っていても言えないから、車に轢かれたり、段差で落ちたりするリスクは仕方ないよね、ってこと?
B:車に轢かれそうとか、段差で転びそうとか、そういう危ないことがあって周りが働きかける流れだと思う。
A:危ないことが実際に起きないと、周りは動かないってことか。
B:そうね。だって本人も気づかないでしょ、事件が起きないと。
A:事件が起きてからじゃ遅いんだけどな。
B:でもそれ何も起きてないものに対して、全部やるんですか?って話にならない?
A:でも明らかに分かるときもあるじゃん。今は例えの話だけれど、目が見えてないことは、周りは明らかにわかるじゃん。
B:だからやっぱり、本人が先に気づくと思う。
A:「自分は目が見えないんだ。見たいな」って?
B:そうそう。「見たい」って言う人に対して、周りが働きかける流れだと思うんだよね。
A:人格障害の話に戻すけれど、「目が見えないです、見たいです」、つまり「人格障害です。治したいです」って自分で言わない人たちは放っておくことになるよね?
B:そういうことになるね……
A:それがどうしても、冷たいなって思っちゃう。だってそれ、駅から落ちるリスクを見過ごすってことだよ。発達障害や人格障害の場合でも、人生や命に関わるリスクはいくらでもある。
B:でも本人が困ってないから、私たちは分からないよね。
A:いや、知って解決できることもあると思っている。だから私はまず、こころの病気、発達障害や人格障害の知識が広まればいいなって思ってる……
B:うん、それはその通りかもしれない。そういう知識が広まれば、本人も、周りも気づきやすくなるかもしれない。
A:困っている人が「困っています!」って叫び続けたことで、やっと知識としてまとまってきた病気だから。きっと、なんて叫んでいいか分からなかったり、叫んでも相手にされなかったり、叫ぶこともなくリスクに見舞われたり……苦しかった人も多かっただろうな。
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